Archive: » 2014 » January

River Boat

River Boat

The Yoshii river has been an important part of the Tsuyama Castle town.  It was acting like a second moat  to the south  but more importantly it was a busy trading route.  Travels on water needs boats and all sorts of river crafts appeared. This craft is designed to ferry people in comfort  either across the river or upstream or downstream.  

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Castle stone walls only survived

Castle stone walls only survived

森忠政は森家の年上の兄弟は皆亡くなってしまったので、織田信長の武将の跡取りとして豊臣秀吉と共に戦国時代に全国統一を戦いました。しかし1598年夏秀吉が亡くなると、全ての武将たちは次にどう生き抜くか考え始めます。秀吉の正室お祢が自分の親戚や人質の少年の中から養子にしたい少年を選んで、手塩にかけて育てた加藤清正や福島正則などの武将と織田信長時代からの共に戦った年配の武将たちは大阪城にいる年寄りになった秀吉に取り入って武将文化ではなく京都の公家のような生活にひたっている淀君と秀吉嫡男の秀頼(当時五歳)を跡継として認めるには賢すぎたと思います。 森忠政も当時は美濃の金山に蘭丸の所領を継いで住んでいたわけですが大阪城内部の体制は分かりはじめていたわけで、大阪城の管理をしていた石田光成が1600年の関ヶ原の戦いにむけて味方になるよう会いに来た時もあっさり断っています。 1594年に豊臣秀長の養女と結婚させられたわけですが、二人側女に子供が出来ても正室の岩には秀吉が亡くなるまで子供が出来ませんでした。初めて豊臣秀長の養女の正室に女子が誕生したのは1598年。忠政はこの時に自分の立場を、秀長の婿ではなく、岩の本当の父、名古屋因幡守高久を舅として、信長の主君筋の斯波氏(尾張足利家)と別流の清和源氏の名門嫡流として、征夷大将軍の座も狙えるものだ、と気がついたのではないでしょうか? 1600年に関ヶ原を東軍の軍として戦い徳川家康から美作の地を拝領。津山城の築城を考えた時、津山の石垣作りのための参考に石工たちを派遣して勉強させたところは細川忠興が1602年より築城しかけていた九州の小倉城。 そうです。今東京都知事選挙に立候補している細川氏の先祖です。

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Tsuyama castle lord was very good looking guy

Tsuyama castle lord was very good looking guy

皆さんご存知のように豊臣秀長は大変知的な武将で、豊臣秀吉が農民の息子でしたかなかった時から彼を支えてトップの武将になるまで経済面でも政略面まで支えた人物です。この豊臣秀長が自分の養女を忠政に正室として送り込んで繋ぎとめようとした、ということは当時の武将たちの中でも森忠政が光っていた証拠だと思います。 しかし、若い忠政にとってはいらぬお節介、既に愛人の竹という女性がいて息子まで設けていた彼としては困った事態になつてしまったといえるでしょう、それに当時の大阪城の中は淀君の偏執的な支配によって豊臣はすでに衰退しているわけで、豊臣の勢力図の中でも外様になっていたと思います。さて、忠政の兄、森蘭丸は18歳で生涯を終えるまでとても美しく聡明な若者でした。同じく忠政も美男であったといえるのではないでしょうか?しかし残っているこの彫像はあまり美男ではないですよね。

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History of Lord Tsuyama Castle 1

History of Lord Tsuyama Castle 1

美作藩津山城とその築城城主 森忠政(もりただまさ) 津山城は現代の岡山県津山市にあります。1604年に築城開始した時は本当に戦争に備えて森忠政が家族と家来と藩の領地を守りぬく気構えで作り始めた、大変考え抜いて当時の築城技術の粋を集めてやりとげた優れた設計の山城でした。 仮想の敵は徳川家康。そうです。外様大名になっていく過程での森氏の生涯の思いは、この築城の全ての形に表れているのだと思っています。 森忠政は織田信長の小姓を勤めた森蘭丸(成人名は成利:なりとし)の末の弟です。成利と下の兄二人は1582年、本能寺の変で織田信長と共に明智光秀に暗殺されています。忠政は母と共に甲賀の里に逃げ、明智勢が敗北してもしばらくは甲賀の里に住んでいたようです。それから京都に移り、1585年、16歳で豊臣の森家当主として越中津幡にて初陣、頭角を現していき、1600年の関が原までは豊臣の勢力内にいました。豊臣秀吉の弟豊臣秀長は長男を失ってしまつたので養女であった岩(いわ)を森忠政に正室として嫁がせます。ここから森氏の生き残りの苦闘が始まったのだと思っていますがどうでしょう?    

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